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Showing posts from October, 2010

女性のパワーアップ

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米国の未来学者、 アルビン・トフラー氏 が、最初の著作「未来の衝撃」を発表してから今年で40年になる。 トフラー氏は「未来の衝撃」の中で、以下のような予言をしたが、いずれもすでに現実として起こった。 1:情報が世界中に瞬時に届けられるようになる(ツィッター) 2:同性婚カップルが養子を育てるようになる(先進国で実現) 3:大規模な事故を含む環境破壊が起きる(メキシコ湾の原油流出) 未来学者、アルビン・トフラー氏の面目躍如である。 氏が共同創設したシンクタンク「トフラー・アソシエイツ」は今月、今後40年の未来を予測する調査を実施し、以下のような結果をまとめたという*。同じく未来社会を鋭く予測した、ピーター・ドラッカー流に言えば「すでに起こった未来」というところか。その中で際だった予想がこれ。「女性のパワーアップ」だ。 今後3年間で行われる約80カ国での大統領選の結果、かつてない勢いで女性指導者が増え、女性のリーダーシップが世界中で高まるという。人口の約半分を占める女性の意志決定参加なしには、政権運営は成功しないというのが、その理由だ。 日本でも、音楽業界、出版界ともに、成功のキーワードは女性になりつつある。女性の人気を得ることができなければ、CDも雑誌も売れない。テレビ番組の視聴率も女性が主導権を持っている。男性は、競争社会の中で身を粉にして働くばかりで、意外に、政権選択や経済市場における意思決定には、参加できていないのだ。 男は夢みたいなことばっかり言っていて結局は草食系。実社会を動かすのは、女性のしっかりとした現実感覚だ。これを肉食系というのだろう。食文化を選ぶのも女性、ファッションをリードし、住居を選ぶのも女性、旅行先を決めるのも女性だ。男性は実社会で偉そうにしてはいるものの、政治や文化的世界でのリード権を、女性に握られつつあるのだ。 大学も、女性に選ばれるようでなければ生き残ることは難しい。東京工科大学・メディア学部は、「工科大学」というキーワードがネックとなり、男子学生の比率が高い。しかしこれからは、こうした女性が作る社会のトレンドをつかみ、トフラー・アソシエイツの予測を先取りするような、教育カリキュラムを作っていかなければならないと考えている。 * 10月25日版 SANKEI EXPRESS 記事「 40年後 女性

いんなーとりっぷ

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「一人で行く商業施設はどこか?」という興味深い調査結果が出た。*  意外なことに、家電量販店をおさえ、都内最大の書店八重洲ブックセンターが第一位となった。その調査によれば、店内での滞在時間も長く、「3時間未満」が45%と「1時間未満」の54%に迫った。活字離れといわれる昨今、なんとなく嬉しい話だ。しかしこうして書店で時間を過ごすのは、やはり50歳代以上が最も多いということだ。 熟年の皆さんは、一人でこの大型書店での本選びをじっくりと楽しんでいるんですね。書籍と遊ぶ。まさに「いんなーとりっぷ **」です。 ところで私達は、なぜ本を読みあさることを楽しむのだろうか。それは私達人間が、文字による世界を持つ動物だからだよね。文字によって人間は、広大なる概念の宇宙に遊ぶことが出来るようになったんだ。八重洲ブックセンターという閉じられた空間にいても、私の心は旅の空。書棚から一冊引き出してページを開くたびに、私は違う何処かの、違う誰かと会いに行くことが出来る。 ネット社会が私達にもたらした世界。それは、あっという間に、八重洲ブックセンターを越えてしまったように見える。iTunesでは、どんな書籍にでも出会うことができるようになるだろう。おそらくアマゾンも、現在の配送流通網を広げるとともに、電子書籍にもビジネスを拡大することだろう。間もなくネット空間には、限りなくリアルタイムな巨大電子ストアが出現する。 しかしちょっと待って。確かに電子書籍の世界は広大で高速アクセスが可能。でも何か大事なことがすっとばされてはいないだろうか?ミュージック・ダウンロードや、ブックマークされたネットの世界は、要するに「いいとこどり」だ。過去に作品をものにした作家の苦労のプロセスを無視して、ツィッターやブログの情報をたよりに「おいしいところ」ばかりを渉猟して歩いていて、本の持つ本当の面白さがわかるのだろうか? ツィッターやブログ、SNSサイトでは、現代に生きる同世代人との会話が可能だ。しかし、読書の本当の醍醐味とは、過去に生きた人々との対話なのだ。かつて真剣に人生と向き合った人々が残した言葉。それに出会うことこそ読書の神髄なのだ。人生に悩み、運命と闘った人々の赤裸々な記録に向き合い、彼らと一対一で話しを聞く楽しみこそが読書ではないだろうか。松尾芭蕉先生とだって勝海舟先生とも対話が出来

航空交通ライブ!

チューリッヒ大学 ( ZHAW )は、修士論文の研究のために「航空交通ライブ(空港まで300km)」アプリケーションを発表しました。スイス周辺、南ドイツの航空管制データを使って、飛行機の飛行コースをリアルタイムに見ることができます。 リアルタイム・レーダー映像 >>> こうした公共のデータを使い、それを新たな手法でヴィジュアライズ(可視化)するアイデアは素晴らしいですね。可視化することで、いままで見えなかったことが見えてきます。またこれを、簡単にYoutube や、大学サイトで公開するところが、現代的です。まさにメディアを縦横無尽に使った研究ですね。 世界中にこんなに飛行機が飛んでるんだ!まるでハチの大群が巣箱から巣箱に移動しているみたいですね。いやこれはまさに、ハチが大挙してエサを集めているすがたそのままではありませんか。人間社会において、重要な場所(経済や産業の中心)は、ヨーロッパ / アメリカ / ブラジルのトライアングルに集まっているんですね。それから、日本とアジア各国に広がる経済圏。昨日ちょうど、羽田空港の国際線がオープンとなりました。日本や中国の空港の、国際的な役割が変わっていく姿も、この研究から見えてくるかもしれませんね。 ZHAW Zürcher Hochschule für Angewandte  Wissenschaften Technikumstrasse 9  Postfach CH-8401 Winterthur zhaw School of Engineering >>> 東京工科大学・メディア学部公式ブログ >>> -

今日は死ぬのにもってこいの日

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心の豊かさを失い文明社会の波間に漂う現代人。この本「今日は死ぬのにもってこいの日」には、現代人乾いた魂を潤す、人間情緒豊かな言葉がたくさん収められている ニューメキシコ州のタオス・プエブロ・インディアンと長年の交流を持った、ナンシー・ウッド氏が、採録したインディアンの叡智なのだ。ひとつひとつの言葉が真珠のようにかがやいて、偉大な思想をふちどっていく。仏教思想になじんだ日本人にとって、彼らの言葉が釈迦の教えに酷似していることに、驚かされる。 以下、一節を引用させていただく。 ____________________ 年月の広がりの中で、わたしは自分自身を時間で包む、 人生の様々な層で、わたしを包み込む毛布のように。 わたしは君にこうしか言えない、 わたしはどこへも行かなかったし、あらゆるところへ言ったと。 わたしはこうしか言えない、 今やわたしの旅は終わったけれど、実は始まっていないのだと。 過去のわたしと未来のわたし それはいずれも、今のわたしの中にある、このように。 <  中略 > わたしは鷲。 狭い世界は、わたしのやることを笑いのめす。 だが大空は、不滅についてのわたしの考えを その胸に収めて、他に語らない。 ____________________ In the distance of my years I cover myself with time Like a blanket which enfolds me with the layers of my life What can I tell you except that I have gone nowhere and everywhere? What can I tell you except that I have not begun my journey now that is through? All that I ever was and am yet to be Lies within me now this way. - - - - - - - - - - - - - I am an Eagle. The small world laughs at my deeds. But the great sky ke

答えの出ない問題

考えても答えの出ないものはある。しかし、志のある人は、歩いて尋ねて教えを請い、いずれ答えを出すだろう。 故松下幸之助氏が、松下政経塾で塾生に向かって話した言葉だ。「もっと自分で考えないといかんわけやな」 自分の頭で考えるということを重視した氏の言葉は、実にシンプルなものだ。しかし、これを現在の大学教育において、学生に伝えるのは、とても難しい。( 『リーダーになる人に知っておいてほしいこと』松下政経塾編 ) 学生達は大学に、” 答えを求めて” やってくる。大学に入学した1年生に「君の将来の夢は?」と聞くと、約三割くらいは「夢をこれから大学で探します」と答える。しかし、このように答えた学生が卒業までに「夢を見つけました」と言ってくることはまれだ。たいがいは「答えを探し回る」というよりは「答えを待っている」という状態の学生が多いからだと思う。 中学校から高校まで、厳しい受験戦争に揉まれてきた。そのために「すべてのものにはひとつの答えがある」と教えられてきた。それは受験問題にはひとつの答えがあるだろう。彼らは常に、そのひとつの答えのみを教えてもらう事を待っている。大学生活でも、4年間のあいだひたすら待っている子が多い。授業中も、何かに疑問を呈するとか、何か新しい答えを生みだそうというような、気概はない。ただひたすら、正解を教えてもらうことを待っている。 だから、三年生の後半ともなり、自分の人生や就職について考え出すようになると、とたんにつまずいてしまう。人生の選択や、就職先の選択には「たったひとつの答え」なんて無いのだから。受験勉強のようにはいかないのだ。考えても答えのでないもの。実は、人生には、こうした「答えのでない」問題のほうが多いんだよ。 単純に仕事について考えるだけではない。本当に人生において大事なものとは何なのか? それは本当に沢山のひとに話を聞かなければわからないこと。数学の答えのように、一冊の本のある場所に書いてあったり、どこかのサイトに書いてあるといったものではないんだもの。クリックして出てくるのは、あやしげな名前占いくらいでしょう。重要なことは、ド・コ・ニ・モ ・書いてありませんよ。 就職の超氷河期と言われる現在。大学教育も曲がり角に来ていると思う。杓子定規に形式的な教育ばかり続けていては、学生達の成長はうながせない。「自分で歩き

ジョンの魂

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ジョン・レノンは、いまやきっと、神様の隣の席にすわってるんだよ。 そう思いたくなるのも当然でしょう。だって、今日のように世界中の人々が、一斉にその魂に祈りをささげるようなことがあるものだろうか。YoutubeでもTwitterでも、JLに溢れた一日。こうして彼の生誕70年を、世界の多くの人が「世界平和」というメッセージとともに、彼を思い出している。世界を平和にしたいという気持ちを、これだけ多くの人に伝えたジョンは、すごい。 デビュー間もない時期に「僕はキリストよりも有名だ」と発言したことで、ビートルズのレコードの不買運動などキリスト教信者からの大反発を受けたジョン。でもきっと、もう70歳にもなって、神様もすっかり許してくれたんだね。 EMIのバランス・エンジニアだった、ジェフ・エメリックが書いているが、ジョン・レノンの " Across the Universe "を、初めてスタジオで聞いた時には、本当に鳥肌が立つような気持ちだったという。あのギター一本と歌声だけでも、まるで全宇宙を超えていくような広がりを持つ名曲。現在、モノ・リマスターボックスの、Mono Master 2 に収録されているのが、その時のオリジナル・テイクだということだ。今聞いても、ジョンの心が、宇宙と同じくらいに大きく広がっていくイメージに溢れる。 アメリカの先住民、チェロキーの信仰は、とても大きくとても深い。しかも彼らは、それを人生が続いている間に、自分の心と体で体現できることを知っている。インディアンの少年が、祖父母から人生についての大事な教えを受ける小説「リトル・トリー ( The Education of Little Tree )」の仲で、少年の祖母がこう語る。 「だれでも二つの心を持っているんだよ。ひとつの心はね、からだの心(ボディ・マインド)、つまりからだがちゃんと生きつづけるようにって、働く心なの。 <中略> でもね、人間はもうひとつ心を持っているんだ。からだを守ろうとする心とは全然別のものなの。それは霊の心(スピリット・マインド)なの」「霊の心が大きく力強くなってきたら、昔自分のからだに宿っていた命も全部見とおせるようになるの。そこまで行くとね、からだが死ぬことなんてもうないのとおんなじになっちゃうの」 人間の命にも限界があり

科学のハート

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ガリレオ・ガリレイは「地動説」をめぐってローマ教皇と対立し、異端審問を受けた。およそ330年後もたった1992年、バチカンはこの誤りを認め、彼の名誉を回復したが、やはり科学と宗教は本質的に相入れないものかもしれない。 1973年に、ノーベル物理学賞を受賞した、江崎玲於奈博士は、この「宗教と科学」の本質的な違いを明確に意識しながらも、人間の心の中での共通点について、このように書いておられる。 「心には、マインドとハートのふたつの面がある。私がマインドの極みであるサイエンスにひかれたのは、ハートの極地に神がいるという同志社での教えに触発されたからのようです。いずれも『心の極地』ということでは、同じだからです」( 10月4日 読売新聞 ) 同志社に学びながらも、決してキリスト教徒になることは無かった博士。一方で「自然や宇宙を支配する絶対唯一の神が存在すると信じるキリスト教は、絶対的な自然神と共通する側面もある」と指摘される。 どんなに科学の時代となっても、人間が科学に取り組むには、その心が必要だ。ものごとに疑問を感じ、ものごとに挑戦する意欲を持ち、自然界の不思議さに感動する心。江崎博士の言葉によれば、科学者は「マインド」という心を使って研究は進めるのだが、実際には「ハート」という感動する心がなければ、真実の業績には到達しないということではないだろうか。 目では決して見えない物質の世界を、心の眼で見通す。昨夜のノーベル化学賞受賞のインタビューに答える鈴木章氏の、おだやかなまなざしに、まさに道を究める者の「ハート」があふれ出るのを感じた。根岸英一氏の言葉にも、自然界にかくされた秘密を探し出す、探求者の心を感じた。結果は30年かかっても、ついてくる。肝心なのはハートなんだ。ハート。

素直な心

経営の神様と言われた松下幸之助氏は「素直な心」の初段だったという。 松下政経塾編「リーダーとなる人に知っておいてほしいこと」に書かれているのだが、現役のころの松下幸之助氏は毎日毎日、神社や仏閣で「今日一日どうか、素直な心を持たせてください」 と祈り続けて来たというのだ。 経営的な判断や、人生における重要な決断において、余計な考えや雑念があってはならない。正しく揺るぎない判断をするためには、主観を排して偏りの無い心を持たなければならない、ということでの精神修養だ。 松下電機を、世界企業に育てた偉大なる経営者、松下幸之助が「判断を誤らないように」自分のこころの状態をコントロールしようと努力していた。ましてや凡人の私のような人間こそが、心の曇りを無くす修行を、しなけれはならないだろう。いやむしろ、凡人であるからこそ、自分の判断は、正確で公平なものであると思い込み、慢心しているのだ。 命がけの選択や、経営の大決断というものを前にした時、人間というものは、なかなか平常心でいることは難しいと思う。松下幸之助氏は、「素直な心でいさせて下さい」という祈りを30年以上続けたのだそうだ。神社や仏閣がない時には、山や空に向かって祈ったという。シロウトの囲碁だって、何百回もやれば初段になるんだから「30年以上続けていれば、なんぼなんでも初段くらいにはなるやろ」ということで、ご自身のことを「素直な心」の初段と言っていたそうだ。頭の下がる話である。

二つの物差し

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結局のところ、どっちが良かったのか、さっぱりわからない代表選。白黒わからない前幹事長。進めるのか進めないのか、はっきりしないダム建設。隣国につながるの高校授業料の無償化。世の中、何が良くて何が悪いのかわからない。ものごとがはっきりしないのが、世の中だ。 しかしこれが通用しないのが教育現場。正しい解答というものが、二つ以上あってはいけないというのが、教育の世界での原則である。合格であって同時に不合格というものはあり得ないし、正解であって同時に不正解というものもない。 教育の現場においては「公正なる評価」が強く求められているために、曖昧な答えは、常にゆるされないのだ。はっきりとした、評価をするために、正しいのか悪いか、どっちかしかないのだ。しかし、いずれ大学から実社会へと巣立っていく学生にとって、これでいいのだろうか。 昨日も紹介した鶴見俊輔さんと重松清さんの対談集「ぼくはこう生きている 君はどうか」では、現代の教育現場にも多様な価値観が必要であると、語られている。 かつて江戸時代の寺子屋では、教師は職住一致で近所の子供の面倒を見た。現代の塾講師のように、受験の請負人ではないのだ。当時の教師というのは、人を落とすためではなく、人を育てるために働いた。だから、人間の評価においても、道徳教育の実践においても、多様な価値観というものが、用いられて来た。教養という物差しと、人間という物差しの二本が必要とされていたのだ。 最後の答えは合っていなくてもいい。問題に直面したときの構想力を評価する。そんな多様な考え方を示せる大人の存在が必要なのだ。江戸時代にその役割りを担ったのが、近所のおじさんであり、寺子屋の先生だった。 西郷隆盛、大久保利通も下級藩士である。みんな大衆の中からでてきた。高杉晋作、伊藤博文、キラ星のごとき長州の志士も、萩という狭い地域から出た。吉田松陰という教師は、多様な価値観と愛情を通して、個性豊かな塾生のひとりひとりを育てあげた。 そこにあるのは、情緒の通う共同体(ゲマインシャフト)だけが持つ、人間関係の暖かさなのだ。 人が人を蹴落として競争を強いられる現代社会と、濃密な人間的な情緒をともなった江戸時代。どちらが、優れた人材を輩出できるか、誰の目にも明らかなのではないだろうか。

エピソードある友情

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5人は、喧嘩もすればバンドもやる、助け合う 鶴見俊介先生と重松清さんの対談集「ぼくはこう生きている 君はどうか」の中に、「エピソードのない友情は寂しい」という話しがあった。最近の子ども達は、本気で喧嘩をしない。喧嘩するとしても、思い切りぶつかるかわりに、ほんのささいなことで傷つけ合うようだ。メールのちょっとした一言に過剰反応。友人の空気を読まない行動にムカつく。行動や外見が仲間と違うというだけでシカトする。 そんな中で、友情エピソード満載の、 映画「BECK」観ました! これだけイケメン男子俳優が揃っていれば、この映画ヒット間違いなしと思いきや、公開直後に水嶋ヒロ君の引退騒動が.. いやいや大丈夫。この映画、ただのイケメン映画ではないのです。友人と友人が、思いっきりぶつかり合って、お互いの力を引き出しあっていく、まさに「エピソードのある友情」の物語なのです。個性派ぞろいの5人が、いかにバンドメンバーとして結束していくのか。いかにしてそれが壊れていくのか。そしてまた、新しいエピソードのもとで再生していくのか。堤監督は、この傑作マンガの映画化において「エピソードある友情」というテーマを軸にしたのに違いないと思う。 これまでこのブログで、三人という仲間が集まった場合の人間関係の難しさなどを考えた。ビートルズの四人も、いつかそれぞれのメンバーの成長とともに崩壊していくのだった。共通の目的をめざす仲間が起こすいざこざは、同じ目標を追うからこそ激烈になる。お互いを思いやる気持ちよりも「なんで、おめえは本気でやらねえんだ!」という怒りが先に立つ。 私もテレビ局生活の中で何度も経験しました。長い間同一のスタッフが一緒に仕事をしていると、いつか必ず不協和音が生じて来るものです。決して仲が悪いわけではないのだけれども、長期間の仕事では、一日一日の積み重ねの中で、ちょっとしたすれ違いや誤解が、だんだん大きくなっていくもの。「あれ?これって昨日決めたこととちがうじゃん!」「この間はこれでいいっていったじゃん!」なんていう、ちょっとした行き違いの繰り返しが、いつか 「おめえとなんか、もう、二度と仕事をしねえ!」 というコトバの爆発で最後を迎えるのです。特に、仲の良かったスタッフどうしが、こうなるのは寂しいものです。後悔先に立たず。ああ、言わないで我慢すればよかった、と