サツマイモ界にも生存競争があるのだろうか

生き残りました

高級デパートの地下食料品売り場でも、平気な顔で高級スィーツとして並んでいたりする。その一方で、享保の飢饉の時などは沢山のひとびとの命をつなぎ、その栽培の容易さや栄養価の高さから「有用な食品」として認められてもいる。サツマイモは、イモ界のスーパースターではないだろうか。1597年に(1618年という説もあるそうです)中国を経て種子島に伝来して以来のロングセラーを誇る大人気商品といえよう。

日常とてもお世話になっているサツマイモです。これだけ大げさに褒めてもバチは当たらないだろう。飢饉はおいておいても、とにかく、誰もがほっくり笑顔になる、あの「甘み」だけでも賞賛に値する。嫌いな人はまずいない、というのはサツマイモの人徳である。

しかし、サツマイモがこれだけの地位を獲得するまでには、いろいろと大変だったのではないだろうか。イモの中でも「よりおいしい品種」「より売れる品種」というものが、選別されて繁栄するようになっているはず。(私の推測です)だとすれば、おそらく「選別されなかった品種」は、消えていくのか、あるいは他の用途に使われるようになって、「表舞台」から姿を消したのだろう。イモ界にも生存競争があり、サツマイモはその勝利者のひとりなのだ。

サツマイモのカゲには、サツマイモにその座をあけわてしてしまった、イモ達がいたはず。あるいはほかの食用植物があっただろう。詳しくみれば、サツマイモにも多数の品種があるようなので、それらの間での生存競争も続いているであろう。ベニアズマ、ベニコマチ、紅赤(べにあか)、金時などの他に、知覧紅(ちらんべに)、鳴門金時(なるときんとき)、五郎島金時(ごろうじまきんとき)などのブランド品種もあるらしい。なるほどね。デパ地下で大きな顔しているのは、このへんの品種だな。上流品種には上流品種のタタカイがあるのだろう。

より良いものが選別されて、劣ったものが消えていく。これはダーウィンが発見した「進化論」の基本原理。さまざまな社会理論の底流にもこの自然淘汰の論理は応用されている。自然界がそうなっているのだから、人間社会のルールがそうだからといって、驚くことはなかろう。

現代日本は、はげしい生存競争の国になった。日本という国の若者やオトナは、たくさんの生存競争ハードルを飛び越えなければ生き残っていけなくなったのである。これはキビシイ。へたをすると幼稚園から始まる「受験」もあるようで、最終的に社会で「定職」という立場を手に入れるまでの間、数々の関門をくぐり抜けなければならないのだ。一旦「定職」を得たオトナたちも、オチオチしていられなくなった。いま、国会では、雇用主が雇用者を解雇できる新ルールについて相談しているらしい。オソロシイ話ですね。おそらくこのままだと、日本人の一生は、生まれて死ぬまで、選別と生存競争のつづく、長距離障害物レースになってしまうゾ。

ひとつだけお願いです。若者たちの「生存競争」のルールに、人間性の尊重というのだけはいれておいて欲しい。「生存競争」のルールが、「スピード」「正確性」「記憶力」「体力」などばっかりだと、「面白い」「なごむ」「優しい」などの要素は排除されてしまいます。

オタク的な性質なんかは、真っ先に排除されてしまう。「生産性」に結びつかない性質ですからね。オタク的専門性というのは、社会の生産性に結びつかない不要な専門性とされてるのですから。でも、本当にそうだろうか。

選別された優秀な人間だけが作る社会というのは、大丈夫なのか。「和み」「癒やし」「個人的興味」「優しさ」こうした要素は、企業の生産性には関係ないように見えるかもしれません。でも、実はこうした測定の難しい「オタク的な要素」のようなものこそ、人間関係を円滑にして最終的には社会の生産性や健全性を上げていくのではないかな、とも思うのです。

オタク芋という品種が開発された場合、消費者としてそれをサポートしたいと思う私でありました。


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